1 / 6
攻城側・西軍4万vs籠城側・鳥居元忠2300:関ヶ原前哨戦・伏見城の戦い(3/22 06:18追記・編集)
100万石の領主で五大老のひとり・秀吉の朋友で秀頼を託された前田利家がなくなると、豊臣政権の筆頭である徳川家康を掣肘できる存在はなくなっった。 上杉景勝に叛意あり、として諸将を連れて会津征伐に赴いた家康。 この隙に大坂方は家康を弾劾して、大坂城の留守居役を追放。伏見城を攻囲した。 駿河・今川家での人質時代も共にあった鳥居元忠が、伏見城の防衛を任された。 会津征伐ための伏見出立前夜、二人は酒を酌み交わした(家康はあまり酒が得意でないとされる)。 彼の最後の奉公は2週間近く西軍を釘付けにする。その結果、西軍の東進、美濃・尾張への展開が遅れ、家康と豊臣恩顧武断派諸将の反転を援けた。 守将・鳥居元忠をはじめ伏見籠城隊はほぼ玉砕した。 その精強さと団結、頑固者揃い、家康への忠誠心に、人々は江戸(関東)に移ってなお三河武士は健在であると思い知った。 ※「伏し目」じゃないじゃん 笑。 ※追記 「三河武士の鑑」by三河物語 元忠は攻め手の鈴木重朝に、彼の功績のための首級を与えた。 重朝は元忠の「紺糸素懸威二枚胴具足」を得たが、その忠節に感じ入り家を継いだ忠政に返還を申し出た。 彼の心意気に感じ入った忠政は「貴家の名誉の証でありましょう」と断る、あるいは表面上で受けた上で、改めて下賜した。 家康は忠実・忠節なる側近の死を嘆き、その働きから忠政は山形藩22万石の大藩となる。 だが、その子と孫の行跡により、当時の情勢(武家諸法度が発せられた間もないので譜代といえど厳正に処置しなければならない)では改易されても仕方ない状況になった。 だが、三代家光は祖父である東照大権現・家康をことのほか尊敬しており、その忠臣である鳥居家を改易させることに肯首しなかった(減俸・転地となる。なお、元忠の父は、家康の祖父・清康に使えていたバリバリの三河モン)。