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ブロバルーン、浮上す
夜の営内に、軍歴資料室のランプがひとつだけ灯っていた。 机に広げられたのは、第二次大戦中の阻塞気球の写真集。都市防空の要として、爆撃機の進入を阻むように浮かべられた無数の気球たち。それらの古びた写真に、ブロント少尉は深く頷いた。 「……なるほどな。物理的打撃は無くとも、“見られている”という圧が敵の行動を制限する……。よろしい、ならば抑止力だ」 翌日、士官候補生たちは点呼のために整列させられていた。まだ薄暗い朝の校庭に、突如として現れた“それ”に、彼らはどよめく。 直径1メートルの白い風船。そこには、金髪ポニーテールで黒軍服・ミニプリーツスカート姿の少女――ブロント少尉をディフォルメしたような邪悪な笑顔のイラストが大きく描かれていた。 「諸君。これは新兵器《ブロント式簡易阻塞気球》……通称“ブロバルーン”である」 壇上から声を張るブロント少尉は、いつになく堂々としていた。 「この風船は、我が帝国自衛陸軍の威厳を象徴する存在。諸君らは、自衛軍を代表する者として常にその意識を持ち、“見られている”という自覚を忘れてはならない!」 士官候補生たちの間に、不安と失笑が交錯する。 「一時脱柵、物資横領、夜遊び、ギンバエ行為――我が目とブロバルーンは見逃さん!」 その夜、脱柵ポイント近くの柵に影が忍び寄った。迷彩ジャケットに身を包んだ候補生が、そっと手をかける――と、不意に顔を上げて凍りつく。 木の陰から、ふわりと現れた1メートルのブロバルーン。風に揺れるその笑顔は、どこかしら本物より邪悪に見えた。 「……うわああああっ! す、すみませんブロント少尉ぃいっ!」 候補生は泣き叫ぶように隊舎へと戻っていった。 ブロバルーンの効果は絶大だった。 ――だが、それも完璧ではない。 深夜、厨房。 冷蔵庫のドアがそっと開く。明かりが漏れる中、堂々と現れたのはブロント少尉本人。金髪ポニーテールに黒軍服ミニスカ姿、まぎれもない本人だ。 「ふふん……余剰物資の定期確認である。規則違反ではない」 彼女は冷蔵庫の中からプリンとチーズケーキを取り出し、ぱくり。 その横で浮かんでいるのは、さきほどと同じく風に揺れるブロバルーン。 ――だが何の効果もなかった。 ブロント少尉は、ブロント少尉には効かないのである。 「ふむ……金ハエには効かぬか。改良が必要だな」 と、皮肉げに、満足げに微笑むブロント少尉の背後で、静かに厨房のドアが開いた。 「少尉……また夜中に何やってるんですか」 そこにいたのは、富士見軍曹。片手に掃除用モップ、そして険しい顔。 「あれ、今浮いてるの……金ハエ?」 「……ちが、いや、ちがわな――」 バシュン。 モップの一撃で、ブロバルーンが無慈悲に破裂した。勢いよく風船がしぼみ、静寂が戻る。 「ひえっ」 と、冷蔵庫の裏から金髪の影が走って逃げ出した。 風でカーテンが揺れる開いた窓から、金ハエ――もとい、金髪の軍人が跳ねるように姿を消していった。 富士見軍曹はため息をつきながら、床のビニール片を拾い上げる。 「まったく……誰が金ハエなんですか、もう」 こうして、厨房からブロバルーンは姿を消し、次なる改良型へと進化するのであった。