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狐と私の約束
あの日、私は森に一人でいた。深い緑と静寂に包まれたその場所は、私の隠れ家だった。都会の喧騒から逃れ、誰にも邪魔されずに自分だけの時間を過ごす。それが、いつの間にか私の習慣になっていた。友達もいないわけじゃない。けれど、どこか誰ともつながれない感覚が私を支配していた。 風が少し冷たくなった夕暮れ時、木々の間から柔らかな光が差し込み、黄金色の世界を作り出していた。私は肩に羽織った黒いワンピースの袖を引き寄せながら、木漏れ日の道をゆっくり歩いていた。髪は明るい茶色に染めているが、湿った風の中で揺れると、まるで森の光を反射するようにキラキラと輝いている気がした。 そんな時だった。足元で何かがカサリと音を立てた。驚いて顔を向けると、小さな狐がこちらを見つめていた。体毛は赤褐色で、陽の光を浴びて金色に輝いている。その姿に目を奪われた私は、しばらく動けなかった。狐も動かない。ただ、私の目をじっと見つめていた。 「どうしたの?」思わず声をかけると、狐は少し首を傾げた。もちろん返事なんて返ってくるはずもない。でも、その仕草にはどこか人間らしさがあって、私はふっと笑ってしまった。 そのまま私は地面にしゃがみ、そっと手を伸ばした。普通なら、こんなことをしても動物は逃げるだろう。けれど、その狐は逃げるどころか、ゆっくりと私に近づいてきた。そして、小さな鼻を私の手のひらに押し当てると、温かな体温が伝わってきた。 「君、どうしてこんなところにいるの?」 狐は答えない。ただ、その瞳の奥に孤独な光が揺れているように見えた。それが、自分自身と重なった。 それから狐は私のそばに座り込み、しばらく一緒に夕焼けを見つめた。周りの景色は黄金色に染まり、まるで時間が止まったように静かだった。その瞬間、私は初めて心の中の何かが溶けていくのを感じた。 次の日も、その次の日も、私は森へ行き、狐と時間を共に過ごした。彼に名前をつけた。「ヒカリ」と。赤く輝く体毛と、私の心に差し込んだ光を思わせる名前だった。ヒカリは私の声を覚えたのか、森に呼びかけるとどこからともなく姿を現した。彼との日々は、孤独だった私の心に少しずつ暖かさを与えてくれた。 そんなある日、ヒカリは私の腕の中に飛び込んできた。その毛は夕日に照らされて、いつもよりも眩しく見えた。私はそのまま彼を抱きしめた。その時、耳元でふと声がした。 「ありがとう、サクラ。」 驚いて目を見開いた。誰もいない。けれど、確かに聞こえたのだ。自分の名前を呼ぶ声が。狐が話すわけがない。そう思いながらも、腕の中のヒカリを見つめると、彼は静かに目を閉じていた。その仕草には、何かを悟ったような穏やかさがあった。 その日を最後に、ヒカリは姿を消した。どれだけ呼びかけても、もう現れることはなかった。森を歩くたび、私はヒカリとの日々を思い出し、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。それでも、心の中には彼と過ごした時間が確かに息づいていた。 それからの私は変わった。以前よりも人とのつながりを大切にするようになった。自分の殻に閉じこもることをやめたのだ。そして時々、森に行って木漏れ日の中で目を閉じる。そうすると、まるでヒカリがそばにいるような気がするのだ。 ヒカリとの出会いは偶然だったのかもしれない。それでも、彼が私に教えてくれたことは確かにある。「孤独は終わりじゃない」と。そして、そこから歩き出す勇気を持つことが大切だと。 私は今でも信じている。森のどこかで、ヒカリは私を見守ってくれていると。そしていつかまた会える日を、そっと願いながら今日も歩き続ける。 --- この物語が、読者の心にヒカリの温もりを届けられますように。