拳に宿る青空
私の名前は夏井瑠奈(なつい るな)。ボクシングと出会ったのは、中学生の頃でした。自分の居場所がどこにもないように感じていた私を、父が半ば無理やり連れて行ったジム。それが、私の人生を変える最初の一歩でした。 目の前の青いリングに立つたびに思い出します。ボクシンググローブを締めた瞬間のあの独特な緊張感。私は今、試合前の控室で自分の拳を見つめています。赤いグローブは、汗と練習の跡を残しながらも、今日という日を待ち望んでいるように輝いています。控室の鏡に映る自分の姿を見て、思わず苦笑いをしました。髪はシルバーグレーに染め、丸くまとめたお団子ヘア。少し気合を入れたつもりでしたが、何だか幼く見えます。それでも、タンクトップと白いショートパンツが、身体の鍛え上げた筋肉を引き立ててくれているのがわかります。汗で軽く張りついた布の感触も、集中力を高めるのに一役買っている気がします。 控室を出て、観客席のざわめきが耳に届くと、緊張が少しずつ高まってきます。でも、その緊張は嫌いじゃありません。逆にそれが私の原動力です。リングに向かう間、私は過去の自分を振り返ります。幼い頃はどちらかというと内向的で、運動なんて得意じゃなかった。夢は何ですかと聞かれても、答えられないような子供でした。でも、ボクシングに出会って、初めて自分が本当に「なりたい自分」を見つけたんです。 コーチの木村さんには何度も怒られました。才能があるわけじゃない。努力でしか埋められない壁がいくつもありました。それでも、私はグローブを外すことはありませんでした。だって、私の拳は嘘をつかないから。何度打ち込んでも跳ね返されるサンドバッグ。それを乗り越えるたびに、自分が少しだけ強くなっている気がしたんです。 そして今、私はリングに上がります。眩しいライトが四方から降り注ぎ、私の肌を焼くような錯覚を起こします。リングの周りには観客の熱気が渦巻いていて、歓声が爆発的に響き渡ります。白と青が交差する背景に、赤いグローブのコントラストが映える。私の対戦相手は身長差で勝る女性ボクサー。彼女の鋭い目つきが、私に「かかってこい」と挑発しているように見えます。 ゴングの音が鳴り響くと同時に、私は一歩踏み出しました。ジャブを繰り出し、フットワークで距離を取りつつも彼女の動きを観察します。一瞬の隙をついて、カウンターを打ち込みます。拳が当たった瞬間の衝撃。確かに、私はここにいる。このリングの上で、過去の自分や周囲の期待、そして自分自身の弱さに打ち勝つために。 中盤戦、彼女のパンチが私のガードをすり抜けて、腹部に重くのしかかりました。一瞬、視界が揺れます。でも、倒れるわけにはいかない。私はリングに膝をつかず、逆に自分の中で静かに燃え上がる闘志を感じました。「まだ終わらない。絶対に立ち続ける」と自分に言い聞かせながら、拳を振り上げます。 最終ラウンド、観客の声援は最高潮に達し、息が切れるほどのラッシュを仕掛けました。そして、最後の一撃。クロスカウンターが彼女のガードを突き抜け、クリーンヒットしました。彼女が崩れ落ちると同時に、私の勝利を告げるゴングの音が鳴り響きます。 試合後、リングの中央で腕を挙げられたとき、涙が頬を伝いました。勝利の喜びもありますが、それ以上に、このリングに立ち続けた自分自身への誇りが胸に広がっていました。観客席の向こうには、木村コーチと父が笑顔で手を振っていました。 控室に戻り、汗を拭きながら鏡を見つめました。その中には、どこか自信を持った表情の私がいました。これで終わりじゃない。私の目指す場所は、まだまだ先にある。その未来を追い続けるために、私は再び拳を握ります。 「さあ、次はどこへ行こうか」。そう呟いた私の背中を、青空が優しく押しているように感じました。