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スーツ
流転する境界線上の擬似クールビズ考察 朝のオフィス街に紛れ込みながら、私は誰よりも存在感を発揮していた。名前はハルカ。かれこれ三年目のOLをやっている。そして私が密かに想いを募らせている相手こそ、経理部の先輩であるエピメテウス――通称「エピメ先輩」だ。洗練された成績、落ち着いた物腰に加え、どんな難案件でも必ずまとめあげる姿はまさに憧れそのもの。誰がどう見ても惚れてしまう魅力を持っている。けれど、彼はときどき抜きん出て冷静すぎる。それ故に、今まで何度アプローチしてもまるで手応えがなかった。 ある日の昼休み、同僚たちとランチを食べていた時のこと。人事部から「今年はクールビズを強化していく」という社内メールが届いた。ネクタイやスーツ上着の着用を自由化して、涼しく過ごそうというのだ。それを見た私は突然ひらめいた。「クールビズってことは、露出度を上げても怒られないんじゃないの?」――こんなボケ方をする人、あまりいないかもしれないが、私は思わず跳ね上がる胸の鼓動を止められなかった。 どうにかしてエピメ先輩の視線を自分へ向けたい。ほとんど裸に近いかたちで体のラインを強調すれば、あの生真面目な人でも戸惑うんじゃないか――。「あ、そういえば私、プロポーションだけは昔から自信あるんだっけ」。思いついたら即行動、というか考えるより先にやりたい放題してしまうのが私の悪いクセ。けれど「○○は××だよ。恋と一緒だな」って誰か言っていた気がするし、思い立ったが吉日でしょ! そして翌朝。私はいつもの白いブラウスを着ず、キャミソールすら着ない。生まれたままの形を保った上半身の上に、スーツのジャケットだけを引っかけるように羽織って満員電車へと乗り込んだ。他の乗客の向ける視線に全く気づかないほど、私の頭はエピメ先輩への作戦成功イメージでいっぱいだった。職場に着いても、もちろん我が胸はほんの少しも隠れていない。ジャケットがはだければ、谷間がそこに存在する状態だ。 オフィスの扉を開けた瞬間、朝礼前の静かなフロアはリアクションに困惑しながら、私を凝視してくる。正直、かなり気まずい――はずなのに、私はいたって平然とデスクへ向かう。すれ違った同僚のユキが驚いたように「どうしたの、その格好!?」と叫ぶと、私は胸を張って微笑んだ。「クールビズですよ! 会社推奨の!」。一瞬、ユキも「冗談、顔だけにしろよ」と呆れながらツッコんだが、もう止めようがない私はそのまま突き進む。 エピメ先輩はいつも通り、手帳を眺めながら仕事の段取りを確認中だ。私は「おはようございます、エピメ先輩!」と声をかけて、自慢の胸をこれでもかとアピールするように前かがみになる。「あ、あれ……ハルカ君……その、上着の下は何も着てないの?」「はい、クールビズですから!」。彼は一瞬目を丸くするが、すぐ得意の冷静な表情に戻り、「そっか……まあ……風邪ひくなよ」とだけ言ってまた仕事に戻ってしまった。 想定とはまるで違うリアクションに、私はカッと顔が熱くなる。目の前で無視されたも同然の経験など、ほとんどない人生だ。にもかかわらず、エピメ先輩はむしろドン引きしているように見える。「な、なんでだろう……私、こんなにサービス精神旺盛なのに」――自信があったプランが見事に空振りしたことにショックを受けながら、私はそうつぶやいた。 その後数日、私の頓珍漢な“超クールビズ”スタイルは会社で衝撃と話題のネタになった。何人かの男性社員が私に視線を送るたび「うわ」と言って目を背けたり、逆に興味津々で見つめてくる強者もいたりで、オフィスの空気が落ち着かない。上司も注意したが私は「でも会社がクールビズしたらと言ったんですよ?」と開き直るため、やたらと対応に困ったらしい。 そんなドタバタをよそに、エピメ先輩は珍しく早退する日が増えた。理由を尋ねてもはっきり答えてくれず、どことなく避けられている気配を感じる。私はそこでようやく「やりすぎたかも……」と薄々自覚し始めた。直球すぎるアピールは実らないばかりか、完全に引かれてしまったらしい。 さらに追い打ちをかけるように、今春入社したばかりの新入社員・サクラが先輩に告白したという噂が駆け巡る。サクラは明るくハキハキとした性格で、周囲ともすぐに打ち解けるタイプ。私は売りを“ボディ”ばかりに頼ってしまったけれど、サクラはエピメ先輩のサポートに徹して細やかな気配りを忘れない。どうやら「いつも困っているときに助けてくれてありがとうございました。私、先輩のことが……」と面と向かって言ったらしい。そしてエピメ先輩はそんな彼女の思いを受け取って、あっさり「よろしく」と返事をしたそうだ。ああ、なんという敗北感。 結局、「裸にスーツ上着だけ」の大博打は私にとって傷口を広げるだけだった。この失敗に懲りて大人しくなるかと言われると、それはまた別の話だけれど、少なくとも今は意気消沈としている。こんな私も、一応反省はするのだ。 夜の静寂を満たす星々のさざめきの奥底に、薄雲を纏いながら漂う風がございます。透き通る闇の色は、街の灯をやわらかく包み前途を見放しはしません。叢(くさむら)の音や遠く地平を掃く風の響きが、忘れられぬ思いをゆるやかに溶かしていきましょう。淡い月光に照らされた舗道を、心のまま歩み続ける者がいるならば、いつの日もまた、新たな道が開かれるに違いございません。