1 / 5
影法師の告白
私の名は椎名凛子。この老舗旅館で仲居として働き始めて、今日でちょうど一年が経ちます。襟元の開いた薄緑色の着物を纏い、髪を後ろでまとめた姿は、まるで代々この宿で働いてきた女将さんの若かりし頃のようだと、常連のお客様からよく言われます。 でも、私は本当の自分を誰も知らないのです。 障子越しの柔らかな光が差し込む廊下に佇んでいると、時折、自分の影が二つに分かれて揺らめくように見えることがあります。それは、私の中に潜む「もう一人の私」の存在を暗示しているのかもしれません。 真っ直ぐな前髪の下から覗く瞳は、お客様からは「凛としていて美しい」と褒められますが、鏡に映る自分の目を見つめると、どこか虚ろに感じます。艶のある黒髪に白い肌、整った顔立ち。しかし、それは本当の私なのでしょうか。 「凛子さんは、まるで浮世絵から抜け出てきたみたいですね」 今日も、常連の作家のお客様にそう言われました。着物の淡い緑色に施された繊細な花の刺繍が、障子から漏れる温かな光に照らされて、かすかに輝きます。けれど、私の心は影のように濃く沈んでいます。 実は、私には過去の記憶がほとんどありません。一年前、この旅館の前で倒れていた私を、女将さんが見つけてくださったのです。身元も、来歴も分からないまま。ただ、不思議なことに着物の着付けや作法は自然と体が覚えていました。 女将さんは私を快く受け入れ、仲居として働かせてくださいました。優しい方なのです。でも、時々気になることがあります。女将さんの目が、私を見つめる時だけ、どこか悲しそうになるのです。 先日、不思議な出来事がありました。若い女性のお客様が、私の姿を見て驚いたような表情を浮かべ、スマートフォンで何かを必死に探し始めたのです。その後、その方は突然チェックアウトされました。 その夜、私は夢を見ました。見知らぬ街で、違う名前で、違う人生を生きている夢。目が覚めた時、頬が涙で濡れていました。私は本当に、椎名凛子なのでしょうか。 今日、女将さんの机の引き出しから、一枚の古い写真が落ちているのを見つけました。そこには、若かりし日の女将さんと、彼女にそっくりな娘さんが写っていました。その娘さんは、まるで鏡に映った私のようでした。写真の裏には、「美咲、17歳の誕生日」と記されていました。 女将さんの娘さんは、10年前に失踪したそうです。私が着ているこの薄緑色の着物も、その娘さんのものだったと、古くからの仲居さんがこっそり教えてくれました。 私は、誰なのでしょう。 記憶を失くした別人なのか、それとも...。答えを求めれば求めるほど、私の中の影は濃くなっていきます。でも不思議と、怖くはありません。この宿で過ごす静かな時間の中で、少しずつ、本当の自分が見えてきているような気がするのです。 障子に映る影は、今日も二つに分かれて揺れています。いつか、その影が一つになる時が来るのでしょうか。それとも永遠に、私は二つの影と共に生きていくのでしょうか。 窓の外では、桜の花びらが静かに舞い落ちています。