窓辺に揺れる、ひと夏の微風
午後の光が静かに部屋に降り注ぐ。 窓際に腰を下ろした私は、ゆるくカールした前髪が風に揺れるのを感じながら、目の前の街並みをぼんやりと眺めていた。 ふと、膝の上で軽く握った手を開き、窓枠に添えてみる。 指先に触れる木枠の質感は、使い込まれた古いもののそれだった。 その表面には小さなヒビが入っている。ほんの些細な傷だけど、私の視線を妙に引き寄せる。 なぜだろう。この部屋に越してきたのはつい最近なのに、まるでこのヒビが昔からそこにあったかのように思えてならない。 「この部屋には、何かがある」 頭の中でそうつぶやくと同時に、心の奥に微かなざわめきが広がった。 私はその感覚を振り払うように体を起こし、窓際に置かれた小さな青いクッションを整えた。 窓から差し込む柔らかな光が、淡いパステルカラーのTシャツに映り込み、虹色の模様がかすかに揺れる。 鏡のように反射する窓ガラス越しに自分の姿がぼんやりと映っている。 肩に軽く触れる切りそろえられた髪と、日焼け知らずの白い肌がこの部屋の淡い色調と不思議なくらい調和している。 それなのに、この部屋に居るときだけ、私は「ここじゃないどこか」に引き寄せられるような感覚にとらわれる。 *** 「ユリ、また窓際に座ってるの?」 声を聞いて振り返ると、カレンが部屋に顔を出していた。 彼女のいつもの明るい表情が、私の曖昧な思考を軽く吹き飛ばしてくれる。 幼馴染であり、同じくこの街に暮らしている彼女は、どんなときも自然体だ。 「うん、なんとなく。」 私は少し笑ってみせるが、カレンは私の曖昧さを見抜いているようだった。 「その窓枠のこと、まだ気にしてるんでしょ?」 彼女が指を差してきたのは、例のヒビの入った部分だった。 何かを知っているような、その言い方に私は思わず聞き返した。 「どうして知ってるの?」 カレンは一瞬だけ視線をそらし、肩をすくめるように笑う。 「だって、ここ前に住んでた人が気に入ってた場所だって話、聞いたことあるから。」 「前に住んでた人?」 この部屋の過去について、初めて耳にする情報だった。 「まあね。でも詳しいことは知らないよ。」 カレンはそれ以上話すつもりはないらしく、話題を変えるように軽く笑って去っていった。 *** 夜になり、窓枠を眺めながら私は考え込んでいた。 「前の住人」――その言葉が妙に引っかかる。 窓枠のヒビ、どこか懐かしい手触り、そして私の胸に広がる得体の知れないざわめき。 もしかしたら、この部屋には本当に何かが残されているのかもしれない。 考え込んでいるうちに、私はふとあることを思い出した。 この窓辺に座っているときだけ、必ず小さな音が聞こえるのだ。 *** 翌朝、窓辺に座ってその音を探してみることにした。 耳を澄ますと、微かに――風が漏れるような音が聞こえる。 でも、それはただの風音ではない。時折、音の中に小さな囁き声のようなものが混じっている気がする。 私はその音の正体を知りたくなって、窓枠をもう一度じっくりと調べ始めた。 すると、ヒビの奥に何かが挟まっているのに気づいた。 小さな紙片。それは薄い、古びたメモのようだった。 取り出してみると、そこには手書きの文字が走り書きされていた。 「またここで会える日を楽しみにしています――」 それだけだった。差出人の名前も、宛名もない。 だけど、その言葉はまるで私に向けられているように感じた。 私はメモをそっと折りたたみ、胸に抱えた。 この部屋で過ごした誰かの記憶が、私を呼んでいるのかもしれない。 *** それから数日間、私はカレンとそのメモについて話すことにした。 彼女は最初、話をはぐらかすようだったけれど、最終的にこう言った。 「きっとその人は、この窓辺を好きだったんだよ。ユリがここにいるのも、偶然じゃないのかもね。」 彼女の言葉が示すものが何なのかは、今でもはっきりとは分からない。 けれど、私はこの窓辺に座るたびに、微かな風と囁き声の中に、確かに何かを感じ取ることができるようになった。 それは過去の記憶、そして新しい未来の兆し。 私たちは日々を生きる中で、気づかないうちに誰かの「痕跡」に触れているのかもしれない。 それを感じ取れるようになったとき、きっと世界はもっと広がっていく。 私は窓を開け、そっと風を吸い込んだ。 街並みは変わらない。けれど、私の中で何かが変わった。 そんな確信を胸に、私は新しい一日を迎える準備を始めた。